明日は、2011年3月11日午後に東日本大震災が発生した日から14年を迎える日。
おととしのお正月に発生した能登半島地震が記憶に新しいところですが、東日本大震災を取り上げるメディアが減り、人々の関心はその後に発生した災害に向けられる現実、震災直後の思いが想いへと薄れつつある東日本大震災。
わたしの故郷、福島県では福島第一原子力発電所がメルトダウンを起こし、海水浴の名所「いわき七浜」の主役的ないわき市薄磯海岸を襲った津波は、多くの犠牲者を出し、壊滅状態となりました。
押し寄せた津波が町全体を破壊しながら海へと引き戻される際に激しい流れとなって、消防団の車両を「丸めて」しまうほどの巨大なエネルギー。
福島県いわき市には、湯の岳断層という活断層があり(湯の岳断層に関する調査報告の詳細はこちら)、本震の3.11から1か月後の4月11日に発生した余震「福島県浜通り地震」が、いわき市の水道などのインフラに大きな被害を及ぼし、福島いわきでは、本震よりもこちらの余震のほうが大変だったという声をいまでも聞くことがあります。
さて、災害の都度流れる避難所の段ボール生活はなんとかならないか、なんて声がありますが、首都圏で大地震が発生したら、避難所も段ボールも期待できない「自宅避難」となることでしょう。
2025年03月10日
2022年03月11日
東日本大震災から11年 すこしだけ記憶を戻して
きょうは、2011年3月11日東日本大震災が起きた日。
わが故郷、福島いわきの薄磯地区でもたくさんの人々の命が津波で失われた。
いわき市でも屈指の穏やかな波、遠浅の砂浜で遊ぶたくさんの人たち、昔ながらの浜の民宿に泊まる人でにぎわった場所。
一帯の土地のかさ上げ工事が終わったのは少し前、最近はコロナで行けてないが、いまはどんな街に変わっているだろう。変わっていないかも知れない。
防災という言葉で巨大な擁壁がそびえたつ海岸。
昔は、寄せる波と海風に誘われて、海へ降りる階段まで歩くのが待ちきれずに古い防波堤から砂浜へ飛び降りたもの。
豊間中学校、国民宿舎からわずかな距離。
ここだけ、奇跡的に津波被害を免れた美空ひばり先生の名曲「みだれ髪」のモチーフ、舞台になった塩屋崎灯台下。
わが故郷、福島いわきの薄磯地区でもたくさんの人々の命が津波で失われた。
いわき市でも屈指の穏やかな波、遠浅の砂浜で遊ぶたくさんの人たち、昔ながらの浜の民宿に泊まる人でにぎわった場所。
一帯の土地のかさ上げ工事が終わったのは少し前、最近はコロナで行けてないが、いまはどんな街に変わっているだろう。変わっていないかも知れない。
防災という言葉で巨大な擁壁がそびえたつ海岸。
昔は、寄せる波と海風に誘われて、海へ降りる階段まで歩くのが待ちきれずに古い防波堤から砂浜へ飛び降りたもの。
豊間中学校、国民宿舎からわずかな距離。
ここだけ、奇跡的に津波被害を免れた美空ひばり先生の名曲「みだれ髪」のモチーフ、舞台になった塩屋崎灯台下。
2021年03月11日
2021年東日本大震災から10年 福島いわき薄磯地区
2010年3月11日午後2時46分、宮城県牡鹿半島沖を震源とするマグニチュード9.0の東日本大震災が発生してからきょうで10年。
なんだか便乗商法のようでちょっとためらったが「まだ」なのか「もう」なのか、きょうは節目の10年、わたしの故郷、太平洋に面した福島県いわき市薄磯地区の様子を中心にやっぱり書くことにしました。
津波の被害で町が壊滅的な被害を受けた地震発生直後のいわき市薄磯海岸地区、いまでも耳に残っているのは、救助隊が配置したのかどこからともなく鳴り響く緊急信号のような発信音。
地震から6年後、津波被害の整地が進み、土地改良工事が行われている薄磯地区の様子。
いわき市がまとめた記録には、いわき市で最大の津波被害に見舞われた薄磯地区では住民787名、283世帯の家屋のほとんどが流失し、直接死で111人、関連死で4名が命を落としたと記されている。
昨年2020年、巨大な高さの防潮堤が出現した海岸の様子。
震災前は、穏やかな波が寄せる遠浅の砂浜で海水浴をした楽しい思い出の場所は、仕方ないがかさあげされた土地に高い防潮堤がそびえる無機質な場所になった。
津波の被害に、もうひとつ福島には岩手、宮城とは異なる「消えない染み」が重しとなって残り続ける。
それは、私が子供の頃小学校の学校教育、社会科見学のコースになっていた福島第一原子力発電所。
当時「浜通り」の小学生ほぼ全員が、国道6号線を常磐交通の大型バスに揺られて福島第一原子力発電所を見学したはず。
原子力発電所施設内の「サービスホール」に案内されて「この発電所は絶対に安全神話」を聞かされたが、生意気盛りの子供としては「絶対なんてあるわけない」とくちごたえしたくなった気持ちは、40年後に本当のことになった。
(見学記念に「プレゼント」された福島第一原子力発電所全景の写真)
常磐道下り線、いわき湯本インターを過ぎると見えてくる放射線線量表示板。
震災前と変わりない風景の中、突然現れるこの表示板「『あれ』があるけど安全ですよ」とポジティブなメッセージと受け取れば良いのだろうが、原発安全神話に裏切られているだけに率直な気持ち怖い場所に来たと思う。
「あした会えなくなるのがわかっていなかったから…」
なんだか便乗商法のようでちょっとためらったが「まだ」なのか「もう」なのか、きょうは節目の10年、わたしの故郷、太平洋に面した福島県いわき市薄磯地区の様子を中心にやっぱり書くことにしました。
津波の被害で町が壊滅的な被害を受けた地震発生直後のいわき市薄磯海岸地区、いまでも耳に残っているのは、救助隊が配置したのかどこからともなく鳴り響く緊急信号のような発信音。
地震から6年後、津波被害の整地が進み、土地改良工事が行われている薄磯地区の様子。
いわき市がまとめた記録には、いわき市で最大の津波被害に見舞われた薄磯地区では住民787名、283世帯の家屋のほとんどが流失し、直接死で111人、関連死で4名が命を落としたと記されている。
昨年2020年、巨大な高さの防潮堤が出現した海岸の様子。
震災前は、穏やかな波が寄せる遠浅の砂浜で海水浴をした楽しい思い出の場所は、仕方ないがかさあげされた土地に高い防潮堤がそびえる無機質な場所になった。
津波の被害に、もうひとつ福島には岩手、宮城とは異なる「消えない染み」が重しとなって残り続ける。
それは、私が子供の頃小学校の学校教育、社会科見学のコースになっていた福島第一原子力発電所。
当時「浜通り」の小学生ほぼ全員が、国道6号線を常磐交通の大型バスに揺られて福島第一原子力発電所を見学したはず。
原子力発電所施設内の「サービスホール」に案内されて「この発電所は絶対に安全神話」を聞かされたが、生意気盛りの子供としては「絶対なんてあるわけない」とくちごたえしたくなった気持ちは、40年後に本当のことになった。
(見学記念に「プレゼント」された福島第一原子力発電所全景の写真)
常磐道下り線、いわき湯本インターを過ぎると見えてくる放射線線量表示板。
震災前と変わりない風景の中、突然現れるこの表示板「『あれ』があるけど安全ですよ」とポジティブなメッセージと受け取れば良いのだろうが、原発安全神話に裏切られているだけに率直な気持ち怖い場所に来たと思う。
「あした会えなくなるのがわかっていなかったから…」
占いランキング(血液型)
提供元:みんなの電話占い
今日の運勢(血液型)
提供元:みんなの電話占い