6月末は、2010年にすい臓がんで亡くなった母の命日。
きのうの土曜日の朝、早起きして少し早い墓参り、高速に乗って福島いわきの菩提寺へビューーン!!
6月の終わりに病院から母を連れて実家に戻って来た時、庭に咲いていたユリスイセン。
いまの季節、くにたち南口の旭通り入口、ファミマの前でこの花を見ることができますが、ユリスイセンを見るたび、母親を想い出すのであります。
母が入院した当初、すい臓がんステージ4の診断が出る前の病院食。
黄疸が出て、消化器系の「目詰まり」を起こしている母には、食べることができない、目で見るだけの食事。
14年前、福島いわきの総合病院を称する病院であってさえこれですから…。
令和の時代、いなかと都会の医療格差が縮まってくれていれば良いのですが。
さて、きのうは、いわきに一泊して、けさ梅雨入りした、雨に煙る常磐道を水しぶきをあげて、外環道大泉、したみち通りを走って自宅へ戻ってきたのでありました。
2024年06月23日
2023年06月30日
母親の命日墓参りの巻
きょうは、2010年6月30日午前0時00分に膵臓がんで75歳の生涯を終えた母親の命日。
朝6時に家を出て、外環道、常磐道と車を走らせ、雨がパラつく中、墓参り。
母親が亡くなっても原発が爆発しても、福島いわきの変わらぬ水の流れ。
2018年に平成天皇が訪ねた、いわき好間の復興公営住宅北好間団地は、最近空室が目立つという地元の人の話。
原発避難対象世帯に大人も子供も一人当たり毎月10万円の賠償金が支払われ、スーパーやパチンコ店は大賑わいし、地元の人たちから「いくらなんでも」と、ひんしゅくを買っていたことは、スーパーのレジで、カートに載せた満杯の買い物かご3つ(どうやったらこんなに買えるのかと)を目の当たりにした自分としては、都市伝説ではなく隠せぬ事実。
水田の向こう、ねこが座ったような形の山は、標高605メートルの閼伽井嶽(あかいだけ)。
昔、山中にある真言宗智山派の常福寺へ中学3年生の大晦日に歩いて登り、新年をお寺さんで迎え、高校受験の合格祈願をするのが当時のしきたりで、何の疑問も持たず同級生たちと暗闇の中、わいわい登ったものでしたが、今の時代はいろんな面でどうなのでしょう。
朝6時に家を出て、外環道、常磐道と車を走らせ、雨がパラつく中、墓参り。
母親が亡くなっても原発が爆発しても、福島いわきの変わらぬ水の流れ。
2018年に平成天皇が訪ねた、いわき好間の復興公営住宅北好間団地は、最近空室が目立つという地元の人の話。
原発避難対象世帯に大人も子供も一人当たり毎月10万円の賠償金が支払われ、スーパーやパチンコ店は大賑わいし、地元の人たちから「いくらなんでも」と、ひんしゅくを買っていたことは、スーパーのレジで、カートに載せた満杯の買い物かご3つ(どうやったらこんなに買えるのかと)を目の当たりにした自分としては、都市伝説ではなく隠せぬ事実。
水田の向こう、ねこが座ったような形の山は、標高605メートルの閼伽井嶽(あかいだけ)。
昔、山中にある真言宗智山派の常福寺へ中学3年生の大晦日に歩いて登り、新年をお寺さんで迎え、高校受験の合格祈願をするのが当時のしきたりで、何の疑問も持たず同級生たちと暗闇の中、わいわい登ったものでしたが、今の時代はいろんな面でどうなのでしょう。
2017年06月01日
母の入院 告知から1か月
きょうは、母の入院後の話を一年ぶりに。
ちょっとこの手の話は勘弁して、という向きには読まずに閉じていただきたいのであるが、記憶をたどって当時の状況を思い出しながら(正直なところ、思い出したくないのであるが)書いてみたい。
膵臓がん告知から1か月、2010年2月の初回検査時に5,987だった基準値は37以下が正常とされる腫瘍マーカーCA19-9は、2010年3月の検査では、34,037と驚異的な数値になった。
肝障害の指標であるAST、ALT、ALP、炎症性疾患の指標 CRP1などの検査値は、許容範囲を超える数値が並んでいる。
検査値の数値は悪化しているが、ステント手術を受けた母は、しばらくは落ち着いた状態が続いて、歩くことはもちろん食べたいものを言うなど、治したいという切な望みを抱いてなんとか頑張っていた。
私は、見舞いに行く日を毎週土曜日と決めて、早朝に家を出て福島の病院へ向かい、夜に戻ってくる繰り返しになった。
無理な話であったが、退院後を見つめてケアマネージャーによる要介護認定を受けたり、高額療養費制度の認定を受けたりと事務的な対応をこなしながら2月は終わり、3月に突入した。
話はそれるが、入院中の2010年2月か3月に比較的大きな地震が起きてトイレにいた母は揺れで転んだと言っていたことを覚えている。いまから思えば、東日本大震災の前兆だったのだろうか。
2月には見舞いに行くたび一週間の出来事を話していた母は、3月に入ると急激に衰えが出て、春彼岸を過ぎる頃には、話したくても声が出ない・声を出せないほど体力が落ちた。
衰えの原因は、もちろん病気そのものが大きいが、痛み止めの医療用麻薬の効果が相当大きいと思っている。当時の主治医の「痛み止めの薬を惜しみなく使います」という言葉を今でもふと思い出すことがある。
奇跡を起こせないかと思いながら医師と面談する度に、厳しく重い現実と先のない未来を突きつけられて家に戻り、日曜を挟んで月曜から金曜まで会社へ出る状況が続くと「結構きついな」的なものを感じることが多くなった2010年3月であった。
ちょっとこの手の話は勘弁して、という向きには読まずに閉じていただきたいのであるが、記憶をたどって当時の状況を思い出しながら(正直なところ、思い出したくないのであるが)書いてみたい。
膵臓がん告知から1か月、2010年2月の初回検査時に5,987だった基準値は37以下が正常とされる腫瘍マーカーCA19-9は、2010年3月の検査では、34,037と驚異的な数値になった。
肝障害の指標であるAST、ALT、ALP、炎症性疾患の指標 CRP1などの検査値は、許容範囲を超える数値が並んでいる。
検査値の数値は悪化しているが、ステント手術を受けた母は、しばらくは落ち着いた状態が続いて、歩くことはもちろん食べたいものを言うなど、治したいという切な望みを抱いてなんとか頑張っていた。
私は、見舞いに行く日を毎週土曜日と決めて、早朝に家を出て福島の病院へ向かい、夜に戻ってくる繰り返しになった。
無理な話であったが、退院後を見つめてケアマネージャーによる要介護認定を受けたり、高額療養費制度の認定を受けたりと事務的な対応をこなしながら2月は終わり、3月に突入した。
話はそれるが、入院中の2010年2月か3月に比較的大きな地震が起きてトイレにいた母は揺れで転んだと言っていたことを覚えている。いまから思えば、東日本大震災の前兆だったのだろうか。
2月には見舞いに行くたび一週間の出来事を話していた母は、3月に入ると急激に衰えが出て、春彼岸を過ぎる頃には、話したくても声が出ない・声を出せないほど体力が落ちた。
衰えの原因は、もちろん病気そのものが大きいが、痛み止めの医療用麻薬の効果が相当大きいと思っている。当時の主治医の「痛み止めの薬を惜しみなく使います」という言葉を今でもふと思い出すことがある。
奇跡を起こせないかと思いながら医師と面談する度に、厳しく重い現実と先のない未来を突きつけられて家に戻り、日曜を挟んで月曜から金曜まで会社へ出る状況が続くと「結構きついな」的なものを感じることが多くなった2010年3月であった。
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